法竹

有音から無音

無音へ至る寸前の状態が余音

余音は雑音力が強い程に妙

竹藪の折れ竹が風に当たりて鳴るような雑音

雑音が整備され、整音となり、

整音が余音となって無音に至る

音の永遠味と根本性を感じるは

 無音  

Nerisajiとは?

Atsuya Okuda 11 August 2020

Sajiは漢字で薩慈
その他に薩字、もしくは佐字、沙志、些志などとも書かれる。
九州博多一朝軒が伝えた鈴法であり、久留米の虚無僧寺林棲軒の鈴慕も、この鈴法から生まれたものといわれている。
薩慈の文字は、一曲を己に徹すると共に、他もまた之を済度する。
これは菩薩が音で慈悲を示し、苦海にある衆生を済(すく)い出す。
その大乗精神を現はそうとして大菩薩ともいわれ、練りに練りこんだ最も難苦な曲から
練薩慈Neri−saji
といわれる。

代々木能舞台

地無し延べ管尺八2尺9寸吹禅2019年11月2日於:代々木能舞台    
(写真撮影:和泉澤賢司)

Atsuya Okuda 8 September 2020 on Facebook

新型コロナウイルスいまだ収束の気配がない4月頃から始まったコロナ禍による長〜い自粛の状況下…..5月20日自宅に於いてYoutubeに初参加!ーーーーーーーーーーーーーーFacebookの思い出からコロナで自粛中😷お稽古も先月の非常事態宣言以来スカイプを除いて殆ど休眠中😌初めての自撮りに挑戦😁2尺6寸地無し延べ管尺八「真虚霊」―真法流―最初はスマホの操作のやり方が解らず四苦八苦😅吹禅を始めて録音初めて気付く😮東隣は神社で、静かな住宅街だと思っていたのにこんなに外が賑やか🙄騒音💢💢カラスやら、、通り過ぎるジェット✈️✈️やら吹禅定具🙏🙏

越後三谷 Echigo Sanya

越後三谷 Echigo Sanya地無し延べ管尺八/2尺9寸堀田侍川→斎川梅翁→岡本竹外師より相伝越後明暗寺最後の住職となった堀田侍川。その流れには、相馬藩の喜染軒出身の神保政(正)之輔(助)がいる。明治22年小樽市で会合し、有名な神保三谷を合作した。尺八の名手で、一時、越後明暗寺に住したことがあり、門弟数千ともいわれていたが、堀田侍川とは不和となり、越後の各地を転々とし、晩年は福島地方にいたという。因みに、この曲は別名、奥州薩字、奥州三谷等ともいわれ、主に西の方では神保三谷として伝わり、近代では産安と、広く伝わる。

鈴慕 reibo = 霊慕 ryobo

鈴慕reibo=霊慕ryobo2尺9寸の地無し延べ管尺八jinashi nobekan shakuhachi2.9(下は比較comparisonのため、一般generalの1尺8寸地有り中継管尺八)古典三曲koten sankyokuを三虚”鈴”sankyo”rei”もしくは三虚”霊”と称される。この鈴慕もしくは霊慕ともいわれる「鈴suzu」は古くは「鐸taku」であり、銅鐸doutakuや鉄鐸があり、また鉄鐸はサナギsanagiともいわれる。古代語ancient languageではサナギは魂soulを振るための呪力spellをもった楽器instrument、霊的spiritualな力をもった楽器。いわゆる「鈴」と「霊」は同義語synonymである。尺八も江戸時代the edo periodには「虚鐸kyotaku」が普化尺八fuke shakuhachiの異名nicknameとされた。(1795・寛政7年に著された「虚鐸伝記国字解」kyotakudenkikokujikai)一管の竹bambooを”認識congnition”の「器うつわcontainer」ととらえ、”吹く行為suizen act”を“認識の至上supreme”の「方法way」とされる古典尺八jinashi nobekan shakuhachiは、仏教buddhismでいうところの「法(真理)truth」を表現expressionする道具instrumentに竹を使うことから、法竹Hocchiku or Hotchiku とも称される。

奥田敦也 / 虚空

このようなご時世!少しでも皆様の癒やしとなれば🤗そのように願いつつ🙏いとうゆうこさんお友達のさとうけいこさんYouTubeアップをお願いしました

長谷川等伯の松林図屏風

長谷川等伯の松林図屏風(国宝)は巨大な松樹と空間それは靄に隠れて拡がる松林ないし空白…..屏風に近づくと松樹は驚くほど荒々しく激しい筆致によって描かれているがしかしその激しさは離れて見ると静かな画趣をつくりだしている法竹(Hotchiku)は竹に音孔を開けただけの、つまりは竹林の折れた竹が風に当たりてなる雑音から清音を味わう根源的な一音一つの音が鳴ったということで周りに静寂ないし…沈黙無音を醸し出すような働きがある 空白をいかすためにある松林があるように….つまりは音の根本性もしくは永遠性は無音にあるのではないか無音が有音と化し、有音が無音に還えるこの音に対する概念この松林図から学ぶことは多い